32大正時代|大正デモクラシーと政治|小学生の歴史解説

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見出しアイコン51解説!大正デモクラシーと政治の変化

 

19世紀(1800年代)終わりごろの明治時代、日本は内閣ないかく制度や大日本帝国憲法ていこくけんぽうがととのい、1890年には初めての衆議院議員選挙しゅうぎいんぎいんせんきょ帝国議会ていこくぎかいがひらかれました。これによって、たくさんの人で政治の話し合いができる仕組みがスタートしました。

 

しかし、選挙に投票できる権利は国民の1%くらいしか持っておらず、せっかく議会で話し合われた内容も、実際に政治をする内閣が無視むししたりすることもあり問題が残りました。

 

このページでは、より多くの人の意見を政治や社会に生かすため努力した、大正時代のできごとや人物を取り上げています。

 

このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら



1912第一次護憲運動
1914(第一次世界大戦)
1916吉野作造の民本主義
1918(米騒動)
1919(ベルサイユ条約)
1920日本最初のメーデー
1922全国水平社が結成
1925治安維持法
1925普通選挙法
登場人物やキーワード
平塚らいてう
大正デモクラシー

 

 

1912年 第一次護憲運動

明治政府ができたあとも、政治の中心となったのは旧薩摩藩さつまはんや旧長州藩ちょうしゅうはんの出身者など、特定の人たちに限られていました。これを藩閥はんばつ政治といいます。

 

大正時代に入った1912年、一部の人たちによる藩閥政治をなくし、憲法にもとづいて正しく政治がおこなわれように主張する運動がおこりました。これを護憲運動ごけんうんどう(第一次護憲運動)といいます。

 

 

 

吉野作造の民本主義

政治学者の吉野作造よしのさくぞうは、国民の意見が政治に生かされる国になる民本主義みんぽんしゅぎとなえました。

 

 

大正デモクラシー

第一次護憲運動や民本主義によって、大正時代にひろまった民主主義みんしゅしゅぎの考え方や運動を「大正デモクラシー」といいます。

 

 

1920年 日本で最初のメーデー

明治時代以降の産業の変化によって、工場などがたくさん作られ、そこで働く労働者が増えました。労働者は景気けいきが良いときには、夜おそくまで長時間働かされたり、景気が悪くなるとぐにクビになることがあり、安定して働くことができませんでした。

 

そこで、安定した働きやすい仕事が継続けいぞくしてできるように求めた、労働者の運動がさかんになりました。1920年には、現在でも行われている労働者の集会(メーデー)が初めて行われました。

 

1922年 全国水平社の結成

明治時代にはいり四民しみん平等となったものの、偏見へんけんによる差別さべつはのこりました。強い部落ぶらく差別に苦しんでいた人々は、1922年に全国水平社すいへいしゃをつくり差別をなくす運動をはじめました。

 

 

平塚らいてう

女性の「平塚ひらつからいてうらいちょう」は、男性よりも下に見られていた女性の地位ちいを高め、女性に選挙権をあたえる運動をおこない、社会にひろまっていきました。

 

 

1925年 普通選挙法

大正時代の終わりごろ、おさめる税金のがくに関係なく、選挙せんきょで投票する権利を求める運動が高まりました。

その結果、1925年に普通選挙法が成立しました。普通選挙法で25歳以上のすべての男子に、衆議院の選挙権があたえられました。

※1925年に成立した普通選挙法では、女子に選挙権はあたえられませんでした。

 

 

1925年 治安維持法

大正デモクラシーや普通選挙法の成立によって、国民ひとり一人の意見が政治に取り上げられ、これまでと大きく社会が変化することに不安を感じていた内閣ないかくは、普通選挙法が成立する直前の1925年に治安維持法ちあんいじほうをつくりました。

 

治安維持法は、社会や政治を大きく変えようとする運動をきびしく取り締まれる法律で、権力者には都合のよい法律でした。

解説!「32.大正時代② 大正デモクラシーと政治の変化」おしまい