7平安時代の武士|源氏と平氏・平清盛|小学生へ歴史解説

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見出しアイコン51解説!武士誕生と平氏の繁栄

 

京の都を中心に貴族きぞくがはなやかな生活していた平安時代。貴族は自分たちのことばかり考え、政治せいじは乱れていきました。とくに都から遠い地方では、領地りょうちうばいあいまでおこっていました。

 

苦労して切りひらいた田畑などの領地を、無理やりに奪われてはたまりません。地方で領地をもつ豪族ごうぞくたちは、家来けらいに武器を持たせ敵にそなえました。これが日本の武士のはじまりといわれています。

 

このページでは、やがて力をつけ、そして大きくまとまっていく武士について取りあげています。

 

このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら



935平将門の乱
939藤原純友の乱
1016(藤原道長が摂政)
1017(藤原頼道が摂政)
1051前九年の役
1083後三年の役
1086白河上皇が院政
1156保元の乱
1159平治の乱
1167平清盛が太政大臣
1185(平氏がほろぶ)
登場人物やキーワード
国司  豪族  武士  
武士団  源氏  平氏  
日宋貿易  宋銭  源頼朝

 

 

地方の乱れ

平安時代、地方で政治をおこなう国司こくしの中には、ぜいを無理にとったり、土地をうばったりと自分勝手な政治をするものがあらわれました。また、豪族どうしで土地の奪いあいなどもおこっていました。

 

国司とは?>
地方の政治を朝廷からまかされた役人で、貴族がその役につきました。

豪族とは?>
それぞれの地方で、大きな土地やたくさんの財産を持つ有力者のことです。

 

 

 

武士のおこり

このように乱れた社会で、豪族などは自分の土地を守るため、家族や家来けらいに武器をもたせ、武芸ぶげいのけいこをさせました。こうして日本の武士ぶしが誕生しました。

 

>武士は、京の都でも朝廷ちょうていや貴族の警備けいびをまかされるなど、活やくの場をひろげていきました。

>武士はやがて、力のある武士を中心に「武士団」といわれる大きなまとまりをつくっていきます。

 

 

 

武士の反乱と成長

しだいに力をつけた武士の中には、朝廷や貴族に反乱をおこすものがあらわれました。

 

▼935年に関東地方で、平将門たいらのまさかどが一族どうしの争いから発展はってんし、国司の役所やくしょを焼きうちにして朝廷を敵にまわしました。

▼939年に瀬戸内海の地域で、もともと国司だった藤原純友すみともが仲間をあつめ、国司の役所をおそう反乱をおこしました。

 

平将門の乱・藤原純友の乱・前九年の役・後三年の役の図(イラスト地図)

 

このような反乱をしずめたのも、戦いが得意な武士たちでした。戦いをくりかえすうち、武士団の中でもとりわけ源氏げんじ平氏へいしが力をもちました。

 

 

 

源氏の活やく

朝廷や貴族には、各地でおこる反乱をしずめる力はなく、武士に協力を依頼しました。武士は、朝廷や貴族にその地位ちいが認められるようになってきました。

 

源氏は、東北地方でおこった乱をしずめ東日本で勢力を強めました

前九年ぜんくねんえき(1051~1062)
東北地方の豪族(安部氏)が反乱をおこし、それを源頼義よりよし源氏)がしずめに行きました。

後三年ごさんねんえき(1083~1087)
前九年の役の後に東北で力をもった清原氏が、1083年に一族どうしで争いをはじめました。源義家よしいえ源氏)の助けを受けた清原清衡きよはらのきよひらが勝ちました。

>清原氏は藤原氏に名前を変え、その後100年間にわたって奥州おうしゅう藤原氏として力を持ちました。

 

 

 

院政がはじまる

1086年、白河しらかわ天皇は天皇をしりぞき、上皇じょうこうという位について政治にかかわりました。これを院政いんせいといいます。

 

>上皇の住まいを「院」と呼ぶことから、院で行う政治という意味で「院政」といわれました。

>院政がはじまると、天皇と上皇のどちらが政治を行うかで争いがおこりました。

 

1156年 保元の乱

1156年に後白河ごしらかわ天皇崇徳すとく上皇が、政治の力をめぐって争いました。これを保元ほうげんらんといいます。

 

>保元の乱は、藤原氏の一族争いもまじり、源氏・平氏それぞれを巻き込んで大きな戦いになりました。そして後白河天皇側が勝利しました。

 

1156年保元の乱・1159年平治の乱の表(イラストフロー図)

 

1159年 平治の乱

1159年、保元の乱で後白河天皇の味方みかただった平清盛たいらのきよもり(平氏)と源義朝みなもとのよしとも(源氏)が争いました。これを平治へいじらんといいます。

 

>平治の乱は平清盛が勝利し、源義朝は殺されました。

>源義朝の子の頼朝よりとも伊豆いず(静岡県)へ流されました。

 

「平治の乱」で勝った平清盛は、武士で一番になりました。

 

 

 

1167年 平清盛が太政大臣に

平清盛は1167年、武士の一番上のくらいである太政大臣だいじょうだいじんとなりました。

藤原氏の力がおとろえていく中で、平清盛は娘を天皇と結婚させ、天皇の親戚しんせきになって政治に力を持ちました。これは、藤原氏がさかえたのと同じやり方です

 

平氏は「平氏にあらずんば人にあらず(平氏でなければ人ではない)」というほどでのさかえぶりでした。

 

 

 

日宋貿易

このころ中国では、とうのあとに国をおさめたそうがありました。平清盛は港(現在の神戸港)を整え、宋とさかんに貿易ぼうえきを行いました。これを日宋にっそう貿易といいます。

 

>日宋貿易の輸入品には宋銭そうせんなどがあります。

 

 

 

平氏への反感

平清盛は貴族だった藤原氏のようないをしていたので、武士や貴族の反感をかいました。

「平治の乱」で殺された源義朝の子である源頼朝は1180年、平氏と戦うために立ち上がります。

解説!「07.源氏と平氏 武士誕生と平氏の繁栄」おしまい