4聖武天皇|奈良時代の仏教と政治|小学生へ歴史解説

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見出しアイコン51解説!奈良時代の仏教政治

 

 

このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら



694都が藤原京へ
701(大宝律令)
701(聖武天皇が生まれる)



710都が平城京へ
723三世一身の法
724聖武天皇が即位
741国分寺を建てる
743東大寺の大仏をつくる
743墾田永年私財法
749東大寺の大仏完成
749(聖武天皇が退く)
753鑑真が日本へ来る
登場人物やキーワード
行基  国中公麻呂  山上憶良  
遣唐使  唐招提寺
天平文化  正倉院  校倉造  
古事記  日本書紀  万葉集
風土記  

 

 

「平城京」と奈良時代

聖武しょうむ天皇は724年に即位そくい(天皇になること)しますが、まずはそれより以前いぜんのお話から・・・。

 

694年に持統じとう天皇がつくった藤原京ふじわらきょう(奈良)、710年に元明げんめい天皇がつくった平城京へいじょうきょう(奈良)は、とう(中国)の都をならってつくられました。

>それまで都は、天皇が変わるとよく場所を変えていました。平城京は天皇が変わってもそのまま使えるようにしてあるのが特徴とくちょうです。

 

>710年に都が平城京になってから、794年に平安京へいあんきょうになるまでの間を奈良時代ならじだいとよびます。

 

貴族はなやか、人々は貧しく

奈良時代、貴族きぞくがはなやかならしをしていましたが、農民など一般の人の生活はまずしかったようです。

 

>8世紀後半(700年代の後半)につくられた日本最初の和歌集わかしゅう万葉集まんようしゅう」には、山上憶良やまのうえのおくらがつくった「貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか」など、農民や下の位の兵士の苦しい生活の様子がうたわれています。

 

 

 

723年 三世一身の法

それまでの公地公民こうちこうみんの制度では、重いぜいおさめれない農民が逃げ出したり、人口が増えて口分田くぶんでん(田んぼ)としてあたえる土地が不足してきました。

 

そこで山や原野げんやなどの土地を開墾かいこん(切りひらいて新しく農地とする)した人には、3世代(切りひらいた人の孫まで)にかぎりその土地をあたえることになりました。この制度を三世一身さんぜいっしんほうといいます。

 

 

 

724年「聖武天皇」即位!仏教にたよる

724年に聖武天皇が即位しますが、このころは地方での反乱や貴族どうしの争い、日照ひでりや水害すいがいでの凶作きょうさく伝染病でんせんびょう流行りゅうこうなど、人々の生活はとても苦しい時代だったようです。

 

聖武天皇は、このようなわざわいをおさえようと仏教ぶっきょうの力を強くたよりました。

 

 

 

聖武天皇の政治(国分寺と奈良の東大寺)

741年、聖武天皇は国ごとに国分寺こくぶんじを建て、平和をいのりました。そして国分寺のトップ(総国分寺そうこくぶんじ)として、奈良の東大寺とうだいじをつくります。

 

>聖武天皇は743年、東大寺に大きな大仏だいぶつをつくるよう命令しました。

 

 

 

聖武天皇の政治(743年 墾田永年私財法)

「三世一身の法」で3世代が農地を使用し、その後に土地を国に返すしくみでは、返すころには農地がれてしまいました(作物さくもつが育ちにくい土地となること)。

 

聖武天皇しょうむてんのうは、自分で開墾した土地は孫の代まででなく、永久えいきゅうに使うことのできる土地と定めました。この制度を墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうといいます。

 

 

 

752年「東大寺の大仏」完成

752年に東大寺の大仏が完成しました。大仏は2人の人物が中心となってつくられました。

>資材(木や石などの材料)と労働力(働く人手ひとで)を集めたのが行基ぎょうき、大仏をつくる技術を担当したのが国中公麻呂くになかのきみまろです。

 

 

東大寺の大仏はでかい!
 ▲高さ  :15メートル
 ▲体重  :380トン
 ▲顔の長さ:5.3メートル
 ▲耳の長さ:2.5メートル
 ▲右手の中指の長さ:1.1メートル

 

 

 

遣唐使の派遣

奈良時代からは、とう(中国)へたびたび使いが送られました。これを遣唐使けんとうしといいます。

 

>唐のすぐれた文化を学ぶために、朝廷ちょうていから任命にんめいされた役人やくにん留学生りゅうがくせいなど、今でいうちょうエリートな人が遣唐使として送られました。

 

鑑真の来日

遣唐使の帰りの船にのって753年、唐から鑑真がんじんが日本に来ました。鑑真は759年、平城京に唐招提寺とうしょうだいじを建てました。

 

>鑑真は唐の高僧こうそう(えらいお坊さん)でしたが、743年に日本に行くことを決意します。しかし計画は何度も失敗し、748年にはあらしで日本ではなくベトナムに漂着ひょうちゃくしました。そのとき目が見えなくなってしまいましたが、753年にようやく日本にたどり着きました。

 

 

 

天平文化と東大寺の正倉院

聖武天皇の天平時代てんぴょうじだいを中心に、奈良時代は貴族の文化がさかえました。このころの文化を天平文化てんぴょうぶんかとよびます。

>聖武天皇が生活に使用した道具などがおさめられている東大寺の正倉院しょうそういんがあります。正倉院は校倉造あぜくらづくりでつくられ、中国やギリシャ、インドやイランなどから伝わった品物しなものがたくさんおさめられています。

 

 

この時代には、古事記こじき日本書紀にほんしょきのような歴史書や、日本最初の和歌集の万葉集、地方の由来ゆらい産物さんぶつ、土地のようすをしるした風土記ふどきなどの書物しょもつがつくられました。

解説!「04.聖武天皇 奈良時代の仏教政治」おしまい