8源頼朝の鎌倉幕府|平氏やぶり封建制度へ|小学生へ歴史解説

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見出しアイコン51解説!鎌倉幕府をひらく

 

平安時代の終わりごろ力を持った平氏へいしは、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどおごり・・・高ぶっていました。このような平氏をよく思ってない武士たちは、各地で平氏勢力せいりょくに対する反乱をおこしました。



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このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら



1167(平清盛が太政大臣に)
1180石橋山の戦い
1180富士川の戦い
1184一ノ谷の戦い
1185壇ノ浦の戦い
1185平氏がほろぶ



1185幕府のしくみができる
1192鎌倉幕府がひらかれる
12193代源実朝が亡くなる
登場人物やキーワード
平氏  源氏  奥州藤原氏  
源頼朝  源義経(牛若丸)
源頼家  源実朝  北条政子  
侍所  公文所  政所
問注所  守護  地頭
武家政治  征夷大将軍
御家人  ご恩  奉公
封建制度  封建社会

 

 

1185年 壇ノ浦の戦い

反乱の中心となった源氏げんじは、「石橋山の戦い」などで平氏に敗れるも、「富士川の戦い」などに勝ち、平氏を追いつめていきました。

 

源頼朝みなもとのよりともは、弟の源義経みなもとのよしつねに平氏をつよう指示しました。

 

源氏・平氏・奥州藤原氏の勢力図(1184年イラスト地図)
↑1184年ごろの勢力図

義経は「一ノ谷の戦い」などで平氏をやぶっていき、1185年に壇ノ浦だんのうら(山口県)でついに平氏をほろぼしました。これを壇ノ浦の戦いといいます。

 

>源義経は幼いころ「牛若丸うしわかまる」と呼ばれ、源氏が平氏をほろぼした立役者たてやくしゃです。
>平氏が天下をとっていたのは、わずか18年でした。



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源義経(牛若丸)が殺される

平氏をほろぼした立役者の義経よしつねですが、その後に頼朝よりともと対立しました。

義経は奥州藤原氏おうしゅうふじわらしに助けをもとめ東北へ行きますが、頼朝をおそれた藤原泰衡ふじわらのやすひらにせめられ、自殺に追い込まれました。

 

>この後に頼朝は奥州藤原氏に攻め込み、奥州藤原氏をほろぼしました。

 

 

 

1185年 幕府政治の仕組みができる

平氏をほろぼした源頼朝は、1185年に守護しゅご地頭じとうをおきました。

 

それ以前に設置していた侍所さむらいどころ公文所くもんじょ(のちに政所まんどころといわれる)・問注所もんちゅうじょという役所に守護・地頭が加わり、武家政治ぶけせいじ基礎きそをきずきました。

 

鎌倉時代のしくみ画像

>守護は地方の国ごとに、地頭は荘園ごとにおかれました。

 

 

 

1192年 鎌倉幕府をひらく

1192年、頼朝は征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなり鎌倉かまくら(神奈川県)に幕府ばくふをひらきます。

 

1192年鎌倉幕府の位置図(イラスト地図)

>幕府とは、将軍しょうぐん政治せいじを行う組織そしき役所)のことです。

>時代げきなどでもよく使われる「将軍」は「征夷大将軍」をりゃくした言葉です。もともとは、東北地方の蝦夷えみし討伐とうばつにいく武士最高の位が「征夷大将軍」でした。しかし時がたち「武士の大将」という意味で使われるようになりました。

 

 

 

封建制度のご恩と奉公

頼朝の家来けらいである武士は御家人ごけにんと呼ばれました。

<ご恩>
御家人は守護や地頭になったり、もともと持っていた土地を領地りょうちとして認められたり、手がらをたてると新たに領地をもらったりして、将軍からおんをうけました。

<奉公>
御家人はご恩のお返し(奉公ほうこう)に、鎌倉の警備けいびをしたり一緒に戦いました。

 

鎌倉幕府(ご恩と奉公の関係)イメージ図

このようなご恩と奉公の関係を封建制度ほうけんせいどといい、土地の領主である御家人は、農民から年貢ねんぐなどを取り立てました。こういった社会のしくみを封建社会といいます。

 

 

 

源氏の将軍は3代でほろぶ

1199年に頼朝がくなりました。

 

頼朝の子源頼家みなもとのよりいえが2代将軍となりますが、頼朝のつまだった北条政子ほうじょうまさこ実家じっか北条氏ほうじょうし)と仲良くできず、将軍の位をうばわれました。

 

そして源実朝みなもとのさねともが11歳で3代将軍となりますが、実際の政治には北条時政ほうじょうときまさ(北条氏)が力をもちました。

>1219年、実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮つるおかはちまんぐうで暗殺され、源氏の将軍は3代でほろびました。

解説!「08.源頼朝 鎌倉幕府をひらく」おしまい

 

 






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