解説!天下統一をはたす
1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀にたおされると、信長の家来であった豊臣秀吉はすぐに明智光秀をやぶりました。
このページでは、信長がはたせなかった「天下統一」を成しとげた戦国大名、豊臣秀吉について取り上げています。
このページの歴史年表
秀吉 | 年代 | 主なことがら |
31歳 | 1566 | 美濃の斎藤氏と戦 |
38歳 | 1573 | 長浜城主(羽柴の姓) |
47歳 | 1582 | 明智光秀を討つ |
47歳 | 1582 | 太閤検地はじめる |
48歳 | 1583 | 大阪城建設 |
50歳 | 1585 | 大阪城完成 |
51歳 | 1586 | 太政大臣(豊臣の姓) |
52歳 | 1587 | バテレン追放令 |
53歳 | 1588 | 刀狩はじめる |
55歳 | 1590 | 天下統一 |
57歳 | 1592 | 文禄の役 |
62歳 | 1597 | 慶長の役 |
63歳 | 1598 | 亡くなる |
登場人物やキーワード | ||
キリスト教 兵農分離 朝鮮出兵 桃山文化 千利休 |
「尾張の農民の子」だった豊臣秀吉
秀吉は織田信長と同じ尾張の出身です。農民の子として生まれ、家はまずしく小さな頃からお寺に小僧として出されます。その後は各地を転々とし、秀吉が23歳の時に織田信長につかえはじめます。
秀吉38歳「長浜城主となり羽柴秀吉となる」
1566年に織田信長の軍と、美濃(岐阜県)の斎藤氏との戦で、織田軍の指揮を秀吉が執りました。この戦いの成果を認められた秀吉は、その後も織田軍のために戦い、手がらを上げていきます。
>1573年には長浜城(滋賀県)をあたえられ城主となり、名を羽柴秀吉とあらためました。
>「豊臣」という姓は、1586年(秀吉51歳)に太政大臣になって朝廷から与えられた名です。
秀吉47歳「1582年、太閤検地をはじめる」
秀吉は農民(百姓)からの年貢を正確におさめさせました。検知とよばれ、農地の面積や米の収穫高を正確にはからせて年貢をわりあてました。1582年にはじまったこの検知を、太閤検地といいます。
秀吉48歳「1583年 大阪城の建設はじまる」
秀吉は1583年に大阪城の建設をはじめ1585年に完成させます。
大阪城を天下統一の本拠地とし、中国地方の毛利氏、四国地方の長宗我部氏、九州地方の島津氏など、有力な大名をやぶっていきました。
秀吉52歳「1587年 バテレン追放令」
秀吉は島津氏をやぶり九州地方を支配した1587年に、キリスト教の宣教師を日本から追放する命令を出します。これをバテレン追放令といいます。
秀吉53歳「1588年 刀狩を行って一揆をおさえる」
1588年、秀吉は刀狩令を出します。
>刀狩とは百姓がもっている刀などの武器を取り上げる事で、百姓の一揆の力を弱めることが目的でした。
>刀狩によって武器を取り上げられた百姓と、武器をもつ武士との区別がはっきりしてきました。これを兵農分離といいます。
秀吉55歳「1590年 ついに天下統一」
1590年、最後まで豊臣側に反対していた小田原(神奈川県)の北条氏を大群で取り囲み北条氏をほろぼします。秀吉はついに「天下統一」をはたしました。
1592年、1597年、「朝鮮出兵」
さらに秀吉は、明(中国)を征服することを計画します。
明を征服するために協力してほしいと朝鮮に頼みましたが相手にされませんでした。そこで秀吉は1592年と1597年の2度にわたり朝鮮に兵をおくりました。
>日本から多くの大名が朝鮮半島へわたり、激しい戦争となりました。1592年を文禄の役、1597年を慶長の役といい、あわせて朝鮮出兵とよばれます。
>朝鮮出兵は、秀吉が1598年に亡くなったのを機に終わりました。
桃山文化の発展
織田信長や豊臣秀吉のころの文化を桃山文化といいます。茶道を完成させた千利休、かぶき踊りを始めた出雲阿国などが、この時代の文化人として有名です。
解説!「15.豊臣秀吉 天下統一をはたす」おしまい
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