解説!満州事変や日中戦争のころ
大正時代は、大正デモクラシーなどによって民主的な政治が動き出した日本ですが、昭和にはいると軍人や軍部が、力によって影響力を強めていきます。
このページでは昭和のはじめごろ、軍部の力が強まっていき、相次ぐ戦争に入っていく日本を取り上げています。
<昭和(昭和時代)とは?>
1926年(昭和元年)12月25日~1989年(昭和64年)1月7日まで。
昭和の前が大正、あとが平成です。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
昭 和 | 1929 | 世界恐慌のはじまり |
1931 | 満州事変 | |
1932 | 満州国を建国 | |
1932 | 五・一五事件 | |
1933 | 日本が国際連盟を脱退 | |
1936 | 二・二六事件 | |
1937 | 日中戦争 | |
1937 | 南京事件 |
1929年 世界恐慌
第一次世界大戦で戦場とならなかったアメリカは、戦争中にヨーロッパの国々などに輸出が増えて経済が強くなり、世界経済の中心的な存在となっていきました。
そのアメリカで1929年10月、とつぜん株式が大暴落(株のねだんが急激に安くなる)し、恐慌(社会がパニックになるほどの不景気)となりました。
世界経済の中心アメリカの不景気は、ヨーロッパや世界中の国々までひろまり、多くの国が不景気におちいりました。これを世界恐慌といいます。
世界恐慌の中の日本
世界中にひろまった不景気は、1930年ごろに日本にも押しよせ、工場や会社がつぶれたり、職を失う人がたくさん出て、人々の生活は苦しくなりました。
そんな不景気の中で、日本の軍人や政治家の中には、中国の東北部にある満州地域を占領すれば豊かな資源が手にはいり、経済が発展して景気が良くなると唱える人たちがあらわれました。
一方で中国では、日露戦争のあとにロシアから日本がゆずり受けていた、満州の権利を取りかえそうとする動きがありました。日本軍はこの動きに対こうし満州地域を占領するかまえでした。
1931年 満州事変
1931年、日本軍は南満州鉄道の線路をわざと爆破し、これを中国軍のしわざだとして戦争をはじめました。これを満州事変といいます。
日本の政府は、戦争が大きくならないよう日本軍に指示しましたが、満州で戦っている日本軍はこれを無視し、満州地域をすべて占領しました。
1932年 満州国を建国
日本は1932年、中国から満州地域をうばって満州国という独立した国をつくり、日本の支配下におきました。
1932年 五・一五事件
1932年5月15日、海軍の青年将校は、満州国の建国に反対したとして犬養毅首相を暗殺しました。これを五・一五事件といいます。
大正デモクラシーや護憲運動などで、憲法にもとづいた民主的な政治をすすめはじめた日本でしたが、五・一五事件を機にふたたび、一部の軍人や権力者がえいきょう力を持つ内閣がつくられるようになりました。
1933年 国際連盟を脱退
中国は、日本がむりやりに満州国をつくったとして国際連盟にうったえました。このうったえを聞いた国際連盟は調査をして、満州国を認めない決議をしました。
日本は1933年に国際連盟を脱退し決議を無視しました。脱退したことで、日本は世界の中で孤立しました。
1936年 二・二六事件
1936年2月26日、陸軍の青年将校らは総理大臣や政治家、帝国議会議事堂などをおそいました。これを二・二六事件といいます。
二・二六事件は数日でしずまりましたが、この事件を機に軍人や軍部の力が強まり、日本の議会は力を失いました。
1937年 日中戦争がはじまる
1937年に中国の北京の郊外で、日本軍と中国軍のあらそいとなり、これをきっかけとして日本と中国は戦争となりました。これを日中戦争といいます。
日本の政府は、戦争が大きくならないよう指示していましたが、軍はこれを無視し、中国の多くの地域が戦場となっていきました。
<日中戦争の終わりは?>
日中戦争がはじまって後、日本は第二次世界大戦や太平洋戦争に入っていきますが、1945年に日本がポツダム宣言を受け入れて降伏(負けを認める)するまで、日中戦争も同時に続きました。
1937年 南京事件
1937年、日本軍は当時の中国の首都であった南京を占領しました。その時、多くの中国人を殺したり暴行したといわれています。これを南京事件(南京大虐殺)といいます。
解説!「33.昭和の戦争① 満州事変や日中戦争のころ」おしまい
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