解説!鎖国への動きと完成
江戸幕府ができて少したつと、幕府はキリスト教が日本にひろまることをきらい、徹底してキリスト教を追いだす動きをとります。江戸時代の鎖国は、キリスト教の追放と深い関係にあります。
<キリスト教を追いだした主な理由は?>
- 「神の前では平等」というキリスト教の教えが、江戸幕府のとった身分制度や封建社会のしくみとちがうため。
- 日本のキリスト教信者が反乱をおこすのではと心配した。
- キリスト教の中でもカトリックという宗派であるスペインやポルトガルは、日本を侵略するのではないかと心配した。
このページでは、キリスト教を追放し、鎖国にいたるまでの事がらについて取り上げています。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
江 戸 時 代 | 1612 | キリスト教の禁止令 |
1624 | スペイン船の入港禁止 | |
1635 | 日本人の渡航・帰国を禁止 | |
1637 | 島原・天草一揆 | |
1639 | ポルトガル船の入港禁止 | |
登場人物やキーワード | ||
徳川秀忠 徳川家光 朱印船貿易 日本町 鎖国 絵踏み 踏み絵 |
朱印船貿易と日本町
豊臣秀吉のころ、外国と貿易をする船に朱印状という許可証明書を持たせ、朱印状を持つ船だけ東南アジアと貿易できるよう整備されました。これを朱印船貿易といい、徳川家康は朱印船貿易がさかんに行われるよう奨励しました。
>朱印船貿易によって、現在のフィリピンやタイなどにたくさんの日本人が渡り、現地で貿易などの仕事につく日本人が集まって住む「日本町」とよばれる地域もできました。
キリスト教の禁止
豊臣秀吉は1587年に「バテレン追放令」を出し、キリスト教の宣教師を日本から追放する策をとりました。しかし、ヨーロッパとの貿易をさかんに行っていたため、この策はあまり効果が無かったといわれています。
江戸時代に入ったころの幕府は、キリスト教を黙認していました(何も言わなかった)が、2代目将軍の徳川秀忠は1612年にキリスト教を禁止しました。
鎖国までの流れと完成
幕府は西日本の大名などが、外国との貿易によって力を付ける事もおそれました。そこで、キリスト教の拡がりを防ぎ、大名が力を持たないように、外国との貿易を制限していきます。
- 1616年、ヨーロッパの貿易船が入れる日本の港を、長崎県の平戸と長崎だけにしました。
- 1624年、スペインからの貿易船を禁止し国交を断絶しました。
- 1635年、日本人が海外へ行くことも、海外から戻ってくることも禁止しました。
「踏み絵」を踏ませる「絵踏み」で信者を処刑
3代将軍の徳川家光のころには、キリストやマリアがえがかれた「踏み絵」とよばれる絵や金属板を、足で踏ませる絵踏みが行われました。
>絵踏みを拒否した者はキリスト教の信者とみなされ処刑されました。
>全ての家が、いずれかの仏教宗派に入ることを義務づける寺請制度がとられました。
1637年 島原・天草一揆
キリスト教を信仰するものが増えていた九州の島原・天草地方において、きびしい年貢の取り立てやキリスト教の禁教策に強い不満を持ったものが、1637年に城下町に火を放ったりお城を包囲したりして一揆をおこしました。
>約6カ月も続いたこの乱を島原・天草一揆といい、幕府は12万もの兵をおくり乱をしずめました。
>島原・天草一揆の後、幕府はさらにキリスト教の禁教を強めることとなります。
1639年 鎖国が完成
1639年にポルトガルの船が日本へ来ることを禁止し、貿易ができる国はオランダと清(中国)だけにして鎖国が完成しました。
1641年には、それまで平戸にあったオランダ商館を長崎の出島にうつし、オランダや清と貿易する船は全て長崎の「出島」の港を使用することとなりました。
>オランダと清に加え、朝鮮と国交を回復させて貿易を行いました。
>幕府は鎖国によって①キリスト教を日本から追い出し政治を安定させました。また②外国との貿易で商人や大名が知らぬ間に力を付ける事を防ぎ、幕府が貿易で儲かるような仕組みにしました。
鎖国の結果
1.幕府だけが貿易で儲かり、幕府の力が強まりました。
2.日本独自の文化が発展しました。
3.進んだ国の情報や技術が日本に入りにくくなりました。
解説!「18.江戸時代② 鎖国への動きと完成」おしまい
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