解説!大化の改新の主役
聖徳太子は天皇を中心とした国を目指し、豪族の力を弱める政治を行いました。しかし622年に聖徳太子が亡くなると、蘇我氏はふたたび強い権力を持つようになりました。
643年に蘇我馬子の子(蘇我蝦夷)と孫(蘇我入鹿)が、聖徳太子の子(山背大兄王)をおそって自殺させ、聖徳太子の一族はほろぼされました。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
飛 鳥 時 代 | 593 | (聖徳太子が摂政) |
630 | (第1回の遣唐使) | |
645 | 大化の改新はじまる | |
646 | 改新の詔 | |
663 | 白村江の戦い | |
667 | 大津遷都 | |
668 | 天智天皇が即位 | |
671 | 天智天皇が亡くなる | |
672 | 壬申の乱 | |
694 | (都を藤原京へ) | |
701 | 大宝律令 | |
登場人物やキーワード | ||
中大兄皇子(天智天皇) 中臣鎌足(藤原鎌足) 藤原不比等 乙巳の変 公地公民 班田収授の法 国・郡・里 祖・調・庸 律令政治 貴族 |
中大兄皇子20歳!乙巳の変!大化の改新の始まり(645年)
山背大兄王とライバルだった中大兄皇子は、中臣鎌足らと協力して蘇我氏を倒そうと計画しました。
そして645年、飛鳥の宮中で蘇我入鹿を暗殺しました。追いつめられた蘇我蝦夷は、館に火をつけて自殺しました。これを乙巳の変といい蘇我氏はほろびました。
このあと中大兄皇子らは唐(中国)をならって天皇中心の国づくりを目指します。これを645年に始まった大化の改新といいます。
中大兄皇子21歳!改新の詔を示す(646年)
646年、これからの政治のやり方が示されました。これを改新の詔といい、代表的なものに公地公民や班田収授の法があります。
◆公地公民
◆班田収授の法
◆地域を国別に分ける(国・郡・里)
◆税の制度(祖・調・庸)
大化の改新①「公地公民」
それまで豪族や皇族が取りしきっていたすべての土地と人々を国のものにしました。
大化の改新②「班田収授の法」
公地公民で国のものとなった土地を、戸籍の制度をつくって人々に口分田としてあたえました。
口分田はお米などをつくるための土地で、6歳以上の男子が2段(*)、女子はその3分の2の大きさの土地を与えられました。口分田を与えられた人が亡くなると国に土地を返す仕組みで、現代のように親から子へと土地が受け継がれません。
(*)2段の大きさは学校にある25mプールが6個分くらい!
大化の改新③「地域を国別に分ける(国・郡・里)」
地域を国と郡と里に分けました。国には国司、郡には郡司、里には里長というリーダーを配置しました。
大化の改新④「祖・調・庸の税」
祖・調・庸という新しい税が定められました。
祖:口分田で収穫された稲の3~5%を税としておさめます。
調:地方の特産物を税としておさめます。
庸:都で1年間のうち10日間を労働するか、労働の代わりに布をおさめます。
中大兄皇子38歳!白村江の戦い(663年)
蘇我氏をほろぼしたあと、中大兄皇子は皇太子として政治を行いました。
そのころ朝鮮半島では新羅と百済が対立していました。以前より友好関係にあった百済が日本に助けを求めてきたので、660年に日本から救援軍を送ります。
>この戦いは663年に日本軍が敗れ(白村江の戦い)、百済は新羅にほろぼされました。
中大兄皇子43歳!天智天皇として即位(668年)
667年、中大兄皇子は天皇になるための準備で都を近江(滋賀県)の大津にうつしました。これを大津遷都といいます。
そして668年に即位(天皇になること)して天智天皇となりました。しかし3年後の671年に46歳で亡くなり、天皇としての期間は短かいものでした。
天智天皇の死後!壬申の乱がおこる(672年)
天智天皇が亡くなった後の天皇の座をめぐって、弟の大海人皇子と、子の大友皇子が争いました。
672年に起こったこの争いは壬申の乱と呼ばれ、古代日本の最大の内乱といわれています。
>「壬申の乱」は大友皇子が敗れ、大海人皇子が天武天皇に即位しました。
天智天皇をずっと支えた中臣鎌足(614~669年)
蘇我入鹿の暗殺や大化の改新、大津遷都などを天智天皇(中大兄皇子)とずっと一緒になって活動してきたのが中臣鎌足です。
中臣鎌足は、669年に天智天皇から大織冠というこの時代最高の位をさずけられました。そして藤原という姓があたえられ、藤原鎌足となりました。
大宝律令の制定(701年)
遣唐使の派遣などで、唐の進んだ文化や政治を学んだ日本は、唐の法律を手本として、701年に大宝律令という制度を完成させました。大宝律令は藤原鎌足の子である藤原不比等や刑部親王がつくりました。
<大宝律令とは?>
律令の「律」は刑罰、「令」は政治のしくみを定めたものです。大宝律令ができた後は、律令を正しく守った律令政治が大切にされました。
>大宝律令には朝廷につかえる役人の位が定めてあり、上の位の役人を「貴族」と呼ぶようになりました。貴族は役人のうち数パーセントで、残りの多くは貴族と呼ばれない下級役人でした。
解説!「03.中大兄皇子 大化の改新の主役」おしまい
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