22江戸時代|享保・寛政・天保の三大改革|小学生へ歴史解説

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見出しアイコン51解説!社会の混乱と三大改革

 

長く続いた江戸時代には、社会の変化に対応し幕府の政治を安定させるため、何度かの大きな改革かいかくがおこなわれました。

このページでは、江戸幕府のもとで行われた改革や社会の変化について取り上げています。

 

このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら
改革



1716徳川吉宗が8代将軍
1720外国本の輸入許可
1721目安箱を設置
1722上米の制
1723足高の制
1735青木昆陽サツマイモ
1742公事方御定書
1772田沼意次が老中
1783(浅間山の噴火)
1783(天明のききん)
1787徳川家斉が11代将軍
1787松平定信が老中
1789きえん令
1790寛政異学の禁
1833天保のききん
1834水野忠邦が老中
1837大塩平八郎の乱
1841株仲間の解散
1843人返しの命令
1853(ペリーが黒船で来航)
登場人物やキーワード
三大改革  わいろ
百姓一揆  打ちこわし

 

 

徳川綱吉「生類あわれみの令」

5代将軍の徳川綱吉つなよしは、動物や昆虫などの生き物を大切にする生類しょうるいあわれみのれいを出しました。

しかし極端きょくたんきびしい内容で、特にに関しては野犬の収容所しゅうようじょをつくるため、住んでいる人達を強制的に引越しさせるなど、保護の仕方が過剰かじょうであったため「犬公方いぬくぼう」といわれ非難ひなんされました。

 

 

新井白石「正徳の治」

徳川綱吉がくなり6代将軍となった徳川家宣いえのぶ、7代将軍の徳川家継いえつぐは、学者の新井白石あらいはくせきの考えを取り入れ政治を行いました。新井白石の政治を正徳しょうとく」といいます。

 

>新井白石はすぐに「生類あわれみの令」を廃止はいししました。また外国からの輸入ゆにゅう品の代金を「金」や「銀」で支払うことで、国内の金や銀が少なくなってしまい、これを防ぐために輸入量を制限せいげんさせたりしました。

 

 

 

江戸時代の三大改革

江戸時代には、享保きょうほう改革かいかく寛政かんせいの改革天保てんぽうの改革という3つの大きな改革時代があります。これをあわせて「三大さんだい改革」といいます。

 

◆享保の改革
・・・1716年に8代将軍となった「徳川吉宗よしむね」が行った改革

◆寛政の改革
・・・1787年に11代将軍となった徳川家斉いえなりの時代、老中ろうじゅうの「松平定信まつだいらさだのぶ」が中心となった改革

◆天保の改革
 ・・・1841年~1843年に、12代将軍の徳川家慶いえよしの時代、老中の「水野忠邦みずのただくに」が中心となった改革

 

 

徳川吉宗「享保の改革」

幕府の財政ざいせい(お金)がきびしい状態にある中、8代将軍の徳川吉宗は、初代将軍の徳川家康いえやすのころの政治を見本として「享保の改革」を行いました。

まい
・・・大名から領地りょうち1万石につき100石のお米を幕府ばくふにおさめさせました。

足高あしだかの制
・・・身分が低くても能力の高いものが高い役職やくしょくにつけるようにしました。

◆外国本の輸入許可ゆにゅうきょか
・・・キリスト教の事柄ことがらっていない外国の本の輸入を許可しました。

目安箱めやすばこ設置せっち
・・・一般の人の意見を大名みずからが聞けるように、目安箱を設置しました。

公事方御定書くじかたおさだめがき
・・・裁判さいばんが正しく行われるように基準きじゅんとなる事柄ことがらが定められました。

 

 

享保の大ききんと「さつまいも」

1731年から32年にかけ天候不良てんこうふりょうによって作物さくもつが不作となり、西日本を中心にたくさんの餓死者がししゃがでました。少ないお米のため値段ねだんが上がり、1733年に江戸で町人が米屋などをおそう「打ちこわし」がおこりました。

また農村でも、少ない収穫のお米から一定の年貢をおさめることに強い不満ふまんを持った百姓ひゃくしょう一揆いっきをおこし領主りょうしゅ対抗たいこうしました。

 

この天候不良の中にあってサツマイモは不作とならず、サツマイモを栽培さいばいしていた地域では餓死者がでませんでした。これを知った徳川吉宗は、青木昆陽あおきこんようにサツマイモを研究けんきゅうさせ、日本各地で栽培をひろめるよう命じました。

 

 

田沼時代

1772年に老中となった田沼意次たぬまおきつぐは、同業者どうぎょうしゃの組合「株仲間かぶなかま」をつくらせたり、輸出ゆしゅつ奨励しょうれいするなどの改革を行いました。

しかし田沼意次の改革は、幕府と、幕府に結びつきの強い商人だけがもうかるしくみとなり、商人が役人にお金をわたすわいろ」がひろまって政治が乱れました。

 

松平定信「寛政の改革」

田沼意次のあとに老中となった松平定信は「寛政の改革」を行いました。1787年から7年間にわたった寛政の改革は、質素倹約しっそけんやくが奨励され、財政(お金)と規律きりつの立て直しがはかられました。

寛政異学かんせいいがくきん
 ・・・「朱子学しゅしがく」以外の学問を禁止しました。

囲米かこいまいの制
・・・ききんにそなえて、お米をたくわえる決まりができました。

◆きえんれい
・・・お金にこまっている旗本はたもと御家人ごけにん借金しゃっきんらすさくを出しました。

 

 

天保の大ききんと「大塩平八郎の乱」

1833年から数年間、天候不良によって作物が不作となりたくさんの餓死者がでました。「打ちこわし」や「百姓一揆」がたくさん起こりました。

1837年、幕府のもと役人だった大塩平八郎おおしおへいはちろうが、ききんで苦しむ人々をすくおうと大阪で反乱をおこすなど、世の中は混乱こんらんしました。

 

 

天保の改革

老中の水野忠邦は、1841年~43年までの間に「天保の改革」を行いました。ききんや政治の乱れ、外国船がいこくせん日本近海にほんきんかいにあらわれるなどで混乱した社会を立て直そうとしますが、内容がきびしかったため反発はんぱつがおきて、2年で改革は終わりました。

◆株仲間の禁止
・・・同業者で組合をつくり商売を独占どくせんする株仲間を解散かいさんさせました。

人返ひとがえ
・・・生活のため農村から都市としに出てきた農民を、農村にもどさせる命令を出しました。

解説!「22.江戸時代⑥ 社会の混乱と三大改革」おしまい