解説!江戸幕府をひらく
徳川家康は1542年に三河国岡崎の城主であった松平弘忠の子として生まれました。松平氏の領地は、織田氏の尾張と今川氏の駿河にはさまれた地で、両方からおびやかされました。
そこで松平弘忠は子の家康を人質に出して、自分の領地を守ろうとしました。
このページでは江戸幕府をひらき、約260年間つづいた幕府政治のしくみをつくった徳川家康について取りあげています。
このページの歴史年表
家康 | 年代 | 主なことがら |
19歳 | 1560 | 「桶狭間の戦い」で自由に |
49歳 | 1590 | 江戸城にはいる |
59歳 | 1600 | 関ヶ原の戦い |
62歳 | 1603 | 江戸幕府をひらく |
64歳 | 1605 | 将軍を秀忠にゆずる |
73歳 | 1614 | 大阪冬の陣 |
74歳 | 1615 | 大阪夏の陣 |
75歳 | 1616 | (亡くなる) |
登場人物やキーワード | ||
今川氏 豊臣氏 天下分け目の戦い 征夷大将軍 親藩 譜代 外様 |
家康19歳「今川氏がやぶれ自由の身に」
最初は織田氏の人質となりますが、途中から今川氏の人質となって少年時代を過ごしました。1560年に織田氏が今川氏を桶狭間の戦いでやぶり、ようやく自由の身になった家康はこの時すでに19歳になっていました。
「桶狭間の戦い」の説明はこちら→ 織田信長|天下統一の道をきりひらく戦国大名
力を付けていった徳川家康
自由になった家康は織田信長と同盟を結ぶなどし、戦国の武将として活躍していきます。1590年に豊臣秀吉が小田原の北条氏をやぶる時にも戦に協力し、関東の領地が家康にあたえられ、江戸城に入ることとなりました。
>このころの関東は、近畿や東海にくらべると田舎で、さびれた江戸城に入るのを家康の家来たちは悲しがったといわれています。
家康59歳「1600年 関ヶ原の戦い」
1598年に豊臣秀吉が亡くなると家康の力が強まりました。そして1600年、家康を中心とする東軍と、秀吉の子である秀頼の豊臣氏をたてた石田三成の西軍とで関ヶ原の戦い(岐阜県)が行われました。
「天下分け目の戦い」
関ヶ原の戦いは、全国の多くの大名が巻き込まれた戦で「天下分け目の戦い」といわれます。
西軍は石田三成を中心に8万、東軍は家康を中心に9万の軍で、朝の7時ごろに始まり、午後2時ごろには東軍(家康)の勝利に終わりました。
家康62歳「1603年 江戸幕府をひらく」
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年に征夷大将軍となり江戸幕府をひらきます。江戸城を本拠地として約260年も続く江戸時代のはじまりです。
家康64歳「子の秀忠に将軍をゆずる」
家康はたった2年で将軍の位を息子の徳川秀忠にゆずりました。しかし政治の大事なことについては家康が自分で決めていきました。
幕府の大事な役には、親戚にあたる親藩や、昔から徳川家に仕えてきた譜代大名だけをつかせました。
↑おもだった大名の配置(1664年ごろ)
>関ヶ原の戦いの後に徳川家に仕えた外様大名は、力を弱めさせたりつぶしたりしました。
1614年「大阪冬の陣」、1615年「大阪夏の陣」
関ヶ原の戦いでやぶれた豊臣氏は、大阪城を中心になおも力のある勢力でした。
家康は1614年の「大阪冬の陣」、そして1615年の「大阪夏の陣」で豊臣秀頼をやぶり、豊臣氏をほろぼしました。
>家康は大阪夏の陣のよく年、1616年に75歳で亡くなりました。
解説!「16.徳川家康 江戸幕府をひらく」おしまい
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