14戦国|天下統一をめざした織田信長|小学生へ歴史解説

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見出しアイコン51解説!天下統一をめざす

 

織田信長おだのぶながが18歳の時、父が亡くなり織田家をつぎました。父の葬式そうしきの日に信長は、かみも整えずはかま・・・も付けずにあらわれて、おこうをつかんで仏前ぶつぜんに投げつけ立ちさったといわれます。

このほかにも、人がおどろくふるまいが多かった信長ですが、おり役の平手政秀ひらてまさひでが、信長の言動げんどうに責任を感じ自殺してからは行動があらたまったといわれます。

 

このページでは、天下統一をめざした戦国大名、織田信長について取り上げています。



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このページの歴史年表

信長
年代
主なことがら
18歳
1551織田家を継ぐ
22歳
1555清州城にうつる
27歳
1560桶狭間の戦い
35歳
1568京都へ入る
38歳
1571比叡山延暦寺を焼く
40歳
1573室町幕府がほろびる
40歳
1573浅井・朝倉氏をほろぼす
42歳
1575長篠の戦いの鉄砲隊
43歳
1576安土城が完成
44歳
1577楽市令
49歳
1582本能寺の変
登場人物やキーワード
今川義元  足利義昭
武田勝頼  徳川家康  明智光秀  
楽市楽座  関所  キリスト教

 

 

信長27歳「1560年 桶狭間の戦い」

信長は本拠地ほんきょちを近くの清州城きよすじょうにうつし、1560年ごろには尾張おわり(愛知県)を統一して支配しました。

 

織田信長の勢力図(1560年の大名・武将の図)イラスト
↑ 1560年ごろの勢力図

1560年、駿河するが(静岡県)の今川義元よしもとが、信長の尾張を攻め込んできました。今川軍が2万5千の兵にたいし、信長はわずか2千の兵でむかえうち、今川軍をやぶりました。

 

1560年に愛知県の桶狭間おけはざまで行われ、桶狭間の戦いといわれたこのいくさで全国にその名が知られた信長は、その後も力をつけていきました。

 

 

 

信長35歳「1568年に京都へ入る」

1567年に斎藤さいとう氏をほろぼし美濃みのを支配した信長は、よく年の1568年に足利義昭あしかがよしあきをたてて京都へ入り、足利義昭を室町幕府の15代将軍にさせました

 

織田信長の勢力図(1568年の大名・武将の地図)京都入京イラスト
↑ 1568年ごろの勢力図

 

信長38歳「1571年に比叡山延暦寺を焼き討ち」

信長は最澄さいちょうがひろめた天台宗てんだいしゅう総本山そうほんざん比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじを焼きうちにします。

 

>比叡山は京都を見下ろせる位置にあり、また延暦寺は信長と敵対てきたい関係にあった浅井あさい朝倉あさくらに協力するなどして、信長にはじゃまな相手でした。

>当時は「お寺をおそうなんて罰当ばちあたり」と考えられていましたが、信長はこれを行いました。

 

 

 

信長40歳「1573年 室町幕府をほろぼす」

信長は15代将軍の足利義昭と対立し、1573年に足利義昭を京都から追放します。これによって、およそ240年間続いた室町幕府はほろびました

 

織田信長の勢力図(1573年比叡山延暦寺・浅井氏・朝倉氏の地図)イラスト
↑ 1573年ごろの勢力図

>この年に浅井氏朝倉氏もほろぼし、1576年に滋賀県の琵琶湖びわこのほとりに安土城あづちじょうを築き本拠地としました。

 

 

 

信長42歳「1575年 鉄砲隊が活躍した長篠の戦い」

三河国みかわのくに長篠城ながしのじょうをめぐって武田勝頼たけだかつよりの軍と、徳川家康とくがわいえやす織田信長の連合軍が戦いました。信長の軍は、足軽鉄砲隊あしがるてっぽうたいをくんで戦いにのぞみ、武田勝頼に勝ちました。

 

織田信長・戦国勢力図(1575年長篠の戦い・武田・徳川・足軽鉄砲隊の地図)イラスト
↑ 1575年ごろの勢力図

>それまで鉄砲は、威力いりょくはあるものの、1度つと次に撃てるようになるまで時間がかかることが欠点でした。信長は鉄砲隊を3列にわけ、順番に前にでて撃たせ欠点けってん克服こくふくしました。

>長篠の戦は、鉄砲が戦術せんじゅつとして大いに認められるようになった戦いです。

 

 

 

城下町で楽市・楽座をはじめる

このころまでは、特定の職業や職人などでという組合をつくり商売を独占どくせんしていました。しかしこれでは、新しく商売に参加したい人は不利になります。

 

そこで信長は、独占できないように座をあらため、自由に商売ができるようにしました。これを楽市楽座らくいちらくざといいます。



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必要ない関所を廃止

それまでたくさんの関所せきしょがおかれ、商人が物をはこぶだけで関所ごとにたくさんの税金ぜいきんがとられていました。

 

信長は織田家に必要ない関所を廃止はいしし、商人の税を減らして商業が発展はってんしやすいようにしました

 

>楽市楽座をはじめ、関所をとりやめたのは、城下町じょうかまち繁栄はんえいさせるためだったといわれています。

 

 

 

キリスト教を保護

信長はキリスト教保護ほごしました。

>保護した理由は、わがままなるまいの多い仏教勢力をおさえるためとか、西洋(ヨーロッパ)の文化や考えを取り入れるため、などといわれています。

 

 

 

信長49歳「1582年 本能寺の変でたおされる」

天下統一にむけ信長は、中国地方から瀬戸内地域せとうちちいきに勢力を拡大させていた毛利氏もうりしをおとすために動いていました。

 

織田信長と戦国大名勢力図(本能寺の変・安土城の地図)イラスト
↑ 1582年ごろ(信長が亡くなる前)の勢力図

しかし1582年に京都の本能寺ほんのうじに泊まった際、家来けらい明智光秀あけちみつひでにおそわれ亡くなりました。これを本能寺のへんといいます。

解説!「14.織田信長 天下統一をめざす」おしまい

 

 






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