解説!日清戦争と日露戦争
1800年代(19世紀)の終わりごろ、強い軍事力を持った欧米やロシアなどの国々は、アジアへと勢力を拡大させていました。日本も朝鮮半島や清(中国)への進出をすすめていきます。
このページでは明治時代に、アジアへと勢力を拡大させる国々と日本との関係を取り上げています。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
明 治 時 代 | 1894 | 日清戦争 |
1895 | 下関条約 | |
1895 | 三国干渉 | |
1902 | 日英同盟 | |
1904 | 日露戦争 | |
1905 | ポーツマス条約 | |
1910 | 韓国併合 | |
登場人物やキーワード | ||
植民地 |
1876年 日朝修好条規(江華条約)
1876年、日本は朝鮮と日朝修好条規(江華条約)という条約を結びました。これは日本が朝鮮に勢力を拡大させようとするもので、朝鮮側に不利な不平等な条約でした。
朝鮮を属国(けらいのような関係)のように思っている清(中国)は、日本が朝鮮へと力を拡大させることを良く思っていませんでした。
1894年 朝鮮国内の反乱
1894年、朝鮮の国内で外国の勢力に不満を持った人たちが、外国勢力の立ち退きを求めて反乱をおこしました。清はこの反乱をしずめるため朝鮮に兵をおくり、日本も清に対抗して朝鮮へ出兵しました。
1894年 日清戦争
朝鮮の反乱がしずまった後も、日本も清も朝鮮から兵をひかず、朝鮮の政治に両国が口を出し、この対立から日本と清との戦争になりました。これを1894年の日清戦争といいます。
1895年 下関条約
日清戦争は、近代的な武器をもっていた日本が各地で勝利していきました。1895年、清は日本に降伏(負けを認めること)し、下関(山口県)で下関条約を結びました。
<日本と清とで結ばれた下関条約とは?>
・遼東半島や台湾を、清から日本がもらう
・清は多額の賠償金を日本へ支払う
1895年 三国干渉
清に勢力を伸ばそうとしていたロシアは、日本が清に進出してくることを良く思っていませんでした。
ロシアは、ドイツとフランスをさそい、日本に対して「下関条約」で手に入れた遼東半島を清に返すように強く要求しました。これを三国干渉といいます。
力を持っている三国には対抗できず、しかたなく日本は遼東半島を清に返しました。しかし日本の中ではロシアに対する反感が強まりました。
1902年 日英同盟
ヨーロッパなどの地域では、イギリスがロシアと対抗していました。同じくロシアに反感をもっていた日本は、イギリスと同盟を結びました。これを1902年の日英同盟といいます。
日英同盟を結んだ日本は、ロシアと戦う準備を整えていきました。
1904年 日露戦争
三国干渉ののち、ロシアは清に力をひろげ、朝鮮にも進出してきました。そこで日本と対立し、日本は満州のロシア軍を攻めて、1904年に日露戦争が始まりました。
日露戦争で日本は、東郷平八郎が指揮する艦隊で日本海海戦などに勝ちましたが、各地で苦戦が続きました。また、戦争にお金を使いきってしまい人々の生活は苦しくなっていきました。
ロシアもまた、国内で政治に対する不満から革命がおこり、戦争を続けることが難しくなっていきました。
1905年 ポーツマス条約
1905年にアメリカの仲立ちで、日本とロシアは条約を結び、日露戦争を終わらせることとなりました。この条約はアメリカのポーツマスという都市で結ばれたため、ポーツマス条約といいます。
<ポーツマス条約とは?>
・樺太(サハリン)の南半分を日本がもらう。
・南満州鉄道や鉱山の権利を日本がもらう。
1910年 韓国併合
日露戦争の後、日本は韓国への支配を強めていきました。1909年、伊藤博文が暗殺された事件をきっかけとして、1910年に韓国を日本の植民地としました。これを韓国併合といいます。
韓国併合によって日本は、韓国で日本語の教育をさせ、人々の土地を取り上げました。1919年には日本の支配に不満をもつ韓国の人々が独立運動を起こしました。
※植民地とは?
その国を支配すること。韓国併合の場合は日本が韓国を支配し、日本で決めたことを韓国に勝手に押し付けること。
解説!「29.明治時代⑤ 日清戦争と日露戦争」おしまい
おすすめの解説ページ
27. 明治時代③ ・・ 自由民権運動と議会政治
28. 明治時代④ ・・ 不平等条約改正への動き
30. 明治時代⑥ ・・ 日本の産業革命と学問や文学
31. 大正時代① ・・ 第一次世界大戦と日本
32. 大正時代② ・・ 大正デモクラシーと政治の変化