解説!大正デモクラシーと政治の変化
19世紀(1800年代)終わりごろの明治時代、日本は内閣制度や大日本帝国憲法がととのい、1890年には初めての衆議院議員選挙と帝国議会がひらかれました。これによって、たくさんの人で政治の話し合いができる仕組みがスタートしました。
しかし、選挙に投票できる権利は国民の1%くらいしか持っておらず、せっかく議会で話し合われた内容も、実際に政治をする内閣が無視したりすることもあり問題が残りました。
このページでは、より多くの人の意見を政治や社会に生かすため努力した、大正時代のできごとや人物を取り上げています。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
大 正 時 代 | 1912 | 第一次護憲運動 |
1914 | (第一次世界大戦) | |
1916 | 吉野作造の民本主義 | |
1918 | (米騒動) | |
1919 | (ベルサイユ条約) | |
1920 | 日本最初のメーデー | |
1922 | 全国水平社が結成 | |
1925 | 治安維持法 | |
1925 | 普通選挙法 | |
登場人物やキーワード | ||
平塚らいてう 大正デモクラシー |
1912年 第一次護憲運動
明治政府ができたあとも、政治の中心となったのは旧薩摩藩や旧長州藩の出身者など、特定の人たちに限られていました。これを藩閥政治といいます。
大正時代に入った1912年、一部の人たちによる藩閥政治をなくし、憲法にもとづいて正しく政治がおこなわれように主張する運動がおこりました。これを護憲運動(第一次護憲運動)といいます。
吉野作造の民本主義
政治学者の吉野作造は、国民の意見が政治に生かされる国になる民本主義を唱えました。
大正デモクラシー
第一次護憲運動や民本主義によって、大正時代にひろまった民主主義の考え方や運動を「大正デモクラシー」といいます。
1920年 日本で最初のメーデー
明治時代以降の産業の変化によって、工場などがたくさん作られ、そこで働く労働者が増えました。労働者は景気が良いときには、夜おそくまで長時間働かされたり、景気が悪くなると直ぐにクビになることがあり、安定して働くことができませんでした。
そこで、安定した働きやすい仕事が継続してできるように求めた、労働者の運動がさかんになりました。1920年には、現在でも行われている労働者の集会(メーデー)が初めて行われました。
1922年 全国水平社の結成
明治時代にはいり四民平等となったものの、偏見による差別はのこりました。強い部落差別に苦しんでいた人々は、1922年に全国水平社をつくり差別をなくす運動をはじめました。
平塚らいてう
女性の「平塚らいてう」は、男性よりも下に見られていた女性の地位を高め、女性に選挙権をあたえる運動をおこない、社会にひろまっていきました。
1925年 普通選挙法
大正時代の終わりごろ、おさめる税金の額に関係なく、選挙で投票する権利を求める運動が高まりました。
その結果、1925年に普通選挙法が成立しました。普通選挙法で25歳以上のすべての男子に、衆議院の選挙権があたえられました。
※1925年に成立した普通選挙法では、女子に選挙権はあたえられませんでした。
1925年 治安維持法
大正デモクラシーや普通選挙法の成立によって、国民ひとり一人の意見が政治に取り上げられ、これまでと大きく社会が変化することに不安を感じていた内閣は、普通選挙法が成立する直前の1925年に治安維持法をつくりました。
治安維持法は、社会や政治を大きく変えようとする運動をきびしく取り締まれる法律で、権力者には都合のよい法律でした。
解説!「32.大正時代② 大正デモクラシーと政治の変化」おしまい
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