23江戸時代|ペリーの黒船来航と開国|小学生へ歴史解説

メニュー2歴史の解説! >23.江戸時代⑦

見出しアイコン51解説!ペリーの黒船と開国

 

1700年代の終わりごろから、ロシアやイギリス、アメリカなどの船が日本にたびたび接近してきました。これに対し幕府は、1825年に異国船いこくせん(外国船)打払令うちはらいれいを出し鎖国さこくを守りました。

異国船打払令は、国交こっこうのあったしん(中国)とオランダ以外の外国船が近づいてきたら大名が大砲たいほう撃退げきたいするよう命じたものです。



スポンサーリンク

 

このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら






1825異国船打払令
1853ペリーの黒船来航
1854日米和親条約を結ぶ
1858日米修好通商条約を結ぶ
1858安政の大獄
1860桜田門外の変

 

 

1853年 ペリーの黒船が来航

1853年に、アメリカのペリーが4せきの軍艦ぐんかん黒船くろふね)をひきいて、浦賀うらが(神奈川県)へ来航らいこうしました。

ペリーは開国を求めるアメリカ大統領だいとうりょうの手紙を幕府に渡しました。幕府はこのとき返事を保留ほりゅう(返事をしないこと)にしました。

 

 

 

1854年 日米和親条約

1854年、再びペリーは7せきの軍艦で横浜(神奈川県)に来航しました。このとき幕府は日米和親条約にちべいわしんじょうやくを結びました。

 

<日米和親条約とは?>

函館はこだて下田しもだの2つの港で、アメリカの船の燃料補給ほきゅうや食料を積みこむことを約束。

 

 

1858年 日米修好通商条約

日本との貿易ぼうえきを強く求めるアメリカとの交渉こうしょうで、幕府の大老たいろうだった井伊直弼いいなおすけは、天皇の許可を得ずに日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくを結びました。

・「通商」とは外国と商売(貿易)をすることです。

 

<日米修好通商条約とは?>

函館新潟横浜神戸長崎の5つの港で、アメリカと貿易することを約束。

・輸入品に対して税金を日本は自由に決められませんでした(関税自主権かんぜいじしゅけんがない)。

・日本にいる外国人が犯罪を行っても、日本でさばくことができませんでした(領事裁判権りょうじさいばんけんを認める)。

 

日米和親条約、日米修好通商条約の港

 

1858年 安政の大獄

日米修好通商条約は、日本に関税自主権がなく、また領事裁判権を認めた不平等ふびょうどうな条約でした。この条約に反対した吉田松陰しょういんなどは井伊直弼にとらえられ、処刑されました。これを安政あんせい大獄たいごくといいます。

 

 

1860年 桜田門外の変

井伊直弼は1860年、条約に反対する水戸はん浪士ろうしに殺されてしまいます。江戸城の桜田門外さくらだもんがいで起こった事件だったことから、桜田門外のへんといいます。

 

 

日本の開国

日米和親条約と日米修好通商条約の2つの約束により、200年以上続いた江戸幕府の鎖国は終わり、日本は開国かいこくしました。

解説!「23.江戸時代⑦ ペリーの黒船と開国」おしまい

 

 






スポンサーリンク