解説!りっぱな政治家
聖徳太子はたくさんの伝説がある歴史上とても有名な人です。
厩戸(馬小屋)の前で生まれたので厩戸皇子とよばれ、10人がいっぺんに話すのを聞きわけたので豊聡耳皇子ともよばれたそうです。ただし、これらの伝説が本当の出来事だったかどうかは分かりません。
>聖徳太子という呼び名は、聖徳太子が亡くなった後の人がつけた名です。立派なお方だったから立派な名前で呼ぼう!ということになったのです。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
飛 鳥 時 代 | 574 | (聖徳太子が生まれる) |
589 | (随が中国を統一する) | |
593 | 聖徳太子が摂政に | |
603 | 冠位十二階 | |
604 | 十七条の憲法 | |
607 | 遣隋使をおくる | |
607 | 法隆寺を建てる | |
622 | (聖徳太子が亡くなる) | |
645 | (大化の改新) | |
登場人物やキーワード | ||
蘇我氏 物部氏 物部守屋 蘇我馬子 推古天皇 小野妹子 飛鳥文化 |
蘇我氏と物部氏の対立
当時、朝鮮半島にある百済という国が伝えてきた仏教の教えを受け入れるかどうかで、蘇我氏と物部氏が対立しました。
>受け入れ賛成派が蘇我氏、反対派が物部氏です。
聖徳太子は賛成派の蘇我氏の軍にはいり物部氏と戦いました。そして蘇我馬子は物部守屋をほろぼしました。
>ちなみに蘇我馬子は男性です。
推古天皇が即位する
蘇我馬子は592年に崇峻天皇を暗殺し、自分のめいの推古天皇を即位させ(天皇にならせ)強い力をもちました。
>推古天皇は女性の天皇です。
>推古天皇の「親戚のおじさん」が蘇我馬子です。
聖徳太子20歳!推古天皇の摂政となる
天皇のかわりに実際の政治をおこなう役を摂政といいます。
推古天皇のおいだった聖徳太子は、20歳の時に摂政の役につきます。そして蘇我馬子と協力し、天皇が中心となる国づくりをすすめました。
>聖徳太子の「親戚のおばさん」が推古天皇です。だから聖徳太子の親戚の大叔父さんが蘇我馬子です。
聖徳太子30歳!冠位十二階を定める
それまでは、家がらで役人の身分が決められていました。だからどんなに能力のある人でも出世ができませんでした。
そこで聖徳太子は603年に冠位十二階を定めました。
>冠位十二階で家がらと出世の関係をなくし、能力があれば出世できるようにしました。役人の位を12段階に分け、それぞれ色分けした冠を与えて区別しました。
聖徳太子31歳!十七条の憲法をつくる
聖徳太子は朝廷につかえる役人の「17つのルール」をつくりました。天皇を中心とした政治を行うため、儒教や仏教の教えをもとに作った心構えのようなものです。
現代の憲法とはちがい「役人さんが守る心構え」、それが604年に制定された十七条の憲法です!
十七条の憲法の第一条は、
「和をもって貴しとなし、さからうことなきをむねとせよ」
と書いてあります。これは「仲良くすることが大切で、争うことのないようにしなさい」という意味です!
聖徳太子34歳!遣隋使を派遣
当時の中国は隋が国を統一し、世界中から人や物があつまる進んだ国でした。日本は隋から進んだ文化や制度を学び、隋の家来のような関係でした。
聖徳太子は隋と対等な立場で付きあうことを目指し、607年に小野妹子を代表として隋に使いを送りました。遣隋使といいます。
>ちなみに小野妹子は男性です。
↑遣隋使の渡航ルート
小野妹子!第1回遣隋使の代表
聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙には、「日の出る国の天子が、日の沈む国の天子に手紙をさしあげる」と対等な立場を意味する言葉で書かれていたそうです。
それまで日本を家来のような国だと思っていた隋の皇帝「煬帝」は、この手紙を読んでとても怒ったといわれています。
>618年に隋はほろび、唐によって中国は統一されました。唐になってからも日本から使いを送りました。これを遣唐使といいます。
飛鳥文化の代表、法隆寺
聖徳太子が活躍していたころの文化を飛鳥文化といいます。飛鳥とは奈良県明日香村(飛鳥地方)に都があったので名づけられました。
聖徳太子が建立した世界最古の木造建築物に法隆寺があります。世界最古ということは、世界中に残っている木でつくった建物の中で一番古いのです!
中学生以上はここも読んでね!
崇峻天皇の暗殺と推古天皇の即位
蘇我馬子は物部守屋をほろぼした後、崇峻天皇をたてて政権を独占しようと試みました。しかし崇峻天皇は蘇我氏の思いとは逆に、蘇我氏の勢力を抑え込もうとしました。そこで蘇我馬子は崇峻天皇を592年に暗殺しました。
崇峻天皇が暗殺され推古天皇が即位しますが、当時は朝鮮半島の不景気や国内の豪族の台頭など、政治のかじ取りが難しい時代だったようです。
天皇中心の政策を行った聖徳太子
593年に推古天皇はおいの聖徳太子を皇太子にし、摂政の役につかせます。それ以前に有力豪族が取りしきっていた政治の実権を、天皇中心にする政策の第一段といわれています。
冠位十二階では、個人の能力や功績による1代限りという条件の出世制度をつくり、有力な家がらとの結びつきを断ち、能力のある人材の登用を目指しました。ただ、冠位を与えられたのは畿内地域を中心とする中・小の豪族であり、蘇我氏は除かれました。
十七条の憲法はわが国で初めて文書で公布した法律(憲法)です。皇室中心の国家統一を目指し、儒教的な徳地(道徳によって治める)思想が基本となっています。
法隆寺は本当に再建されたのか?
最初に建てられた法隆寺は火事で焼失し、現在立っている法隆寺は一般的には7世紀に再建されたものといわれます。しかし科学的な検証結果により当時のままであるという論(非再建論)も再浮上しており、現在もはっきりした結論は出ていません。
解説!「02.聖徳太子 りっぱな政治家」おしまい
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