5桓武天皇|都を京へ移し平安時代へ|小学生へ歴史解説

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見出しアイコン51解説!律令政治の立て直し

 

奈良に平城京へいじょうきょうの都があった奈良時代には、仏教勢力せいりょく(仏教を信仰しんこうする集まり)が口出しするなどして、政治せいじが乱れました。

781年に即位そくいした桓武かんむ天皇は、律令政治りつりょうせいじをだれもが守る国にするため、都をうつしました。

 

律令政治とは法律を守っておこなう政治のことです。701年に「大宝律令」が定められ大切になった考え方です。

 

このページの歴史年表

時代
年代
主なことがら



710(都が平城京へ)
743墾田永年私財法
784都が長岡京へ



794都が平安京へ
797坂上田村麻呂が征夷大将軍
805最澄が日本へもどる
806空海が日本へもどる
858(藤原良房が摂政)
887(藤原基経が関白)
登場人物やキーワード
桓武天皇  律令政治  早良親王  
荘園  蝦夷征討 
比叡山延暦寺  天台宗  伝教大師
高野山金剛峯寺  真言宗  弘法大師  
班田収授の法  口分田  健児の制

 

 

京の都「平安京」と平安時代

桓武天皇は784年、都を長岡京ながおかきょう(京都)にうつしました。しかし翌年785年に、長岡京の建設責任者けんせつせきにんしゃだった人が暗殺あんさつされ、その事件に関係した桓武天皇の弟の早良親王さわらしんのう種子島たねがしまへ島流しにされました。

 

島流しのとちゅうで早良親王は亡くなってしまいました。弟のたたり・・・をおそれた桓武天皇は、794年に都を平安京へうつしました。

 

藤原京・平城京・長岡京・平安京の地図(イラスト図)

>都が平安京にうつされたころから、1185年に平氏へいしがほろびるまでの約400年間を平安時代へいあんじだいとよびます。

 

 

 

各地で荘園がひろがる

743年に墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが制定されてから、貴族きぞく豪族ごうぞく、お寺や神社の勢力が荘園しょうえんといわれる私有地しゆうち(自分の土地)をつくり増やしました。

 

荘園ぜいをおさめなくてよい権利けんりや、役人やくにんが荘園に入れない権利などを獲得かくとくしていき、地方にも荘園が増えていきました。

※「墾田永年私財法」の詳しい説明→聖武天皇の政治

 

 

 

桓武天皇の政治(平安仏教)

桓武天皇は、奈良の仏教勢力に政治へ口だしさせないよう、京の都へ立ち入りを禁止しました。

そして、とう(中国)で修業しゅぎょうをつみ日本へ帰ってきた最澄さいちょう空海くうかいに、国や人々の幸せをいのる新しい仏教をひらかせ、ひろまるよう手伝いました。

 

比叡山延暦寺・高野山金剛峯寺の地図(イラスト図)

最澄の天台宗てんだいしゅう

805年、最澄は比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ滋賀県しがけん)で天台宗をひろめます。最澄は伝教大師でんぎょうだいしともよばれます。

空海の真言宗しんごんしゅう

806年、空海は高野山こうやさん金剛峯寺こうごうぶじ和歌山県わかやまけん)で真言宗をひろめます。空海は弘法大師こうぼうだいしともよばれます。

 

 

 

桓武天皇の政治(班田収授の法を見直す)

荘園がたくさんつくられ、班田収授はんでんしゅうじゅほうの決まりが通用つうようしなくなりました。そこで桓武天皇は、6年に1度あたえられていた口分田くぶんでんを12年に1度に変更しました。

 

桓武天皇の政治(農民の負担を軽くした)

桓武天皇は、農民の兵役へいえき(兵士として参加すること)をやめさせ、代わりに健児こんでいの制をもうけました。

 

健児の制とは、郡司ぐんじや有力者の子供を兵士として参加させる制度です。

 

 

 

桓武天皇の政治(蝦夷征討えみしせいとう

797年に、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ征夷大将軍せいいたいしょうぐんにして、蝦夷えみし(東北地方)を攻め込みました。

坂上田村麻呂(蝦夷征討のイメージ図)

 

解説!「05.桓武天皇 律令政治の立て直し」おしまい