解説!ペリーの黒船と開国
1700年代の終わりごろから、ロシアやイギリス、アメリカなどの船が日本にたびたび接近してきました。これに対し幕府は、1825年に異国船(外国船)打払令を出し鎖国を守りました。
異国船打払令は、国交のあった清(中国)とオランダ以外の外国船が近づいてきたら大名が大砲で撃退するよう命じたものです。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
江 戸 時 代 | 1825 | 異国船打払令 |
1853 | ペリーの黒船来航 | |
1854 | 日米和親条約を結ぶ | |
1858 | 日米修好通商条約を結ぶ | |
1858 | 安政の大獄 | |
1860 | 桜田門外の変 |
1853年 ペリーの黒船が来航
1853年に、アメリカのペリーが4せきの軍艦(黒船)をひきいて、浦賀(神奈川県)へ来航しました。
ペリーは開国を求めるアメリカ大統領の手紙を幕府に渡しました。幕府はこのとき返事を保留(返事をしないこと)にしました。
1854年 日米和親条約
1854年、再びペリーは7せきの軍艦で横浜(神奈川県)に来航しました。このとき幕府は日米和親条約を結びました。
<日米和親条約とは?>
函館と下田の2つの港で、アメリカの船の燃料補給や食料を積みこむことを約束。
1858年 日米修好通商条約
日本との貿易を強く求めるアメリカとの交渉で、幕府の大老だった井伊直弼は、天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を結びました。
・「通商」とは外国と商売(貿易)をすることです。
<日米修好通商条約とは?>
・函館・新潟・横浜・神戸・長崎の5つの港で、アメリカと貿易することを約束。
・輸入品に対して税金を日本は自由に決められませんでした(関税自主権がない)。
・日本にいる外国人が犯罪を行っても、日本で裁くことができませんでした(領事裁判権を認める)。
1858年 安政の大獄
日米修好通商条約は、日本に関税自主権がなく、また領事裁判権を認めた不平等な条約でした。この条約に反対した吉田松陰などは井伊直弼にとらえられ、処刑されました。これを安政の大獄といいます。
1860年 桜田門外の変
井伊直弼は1860年、条約に反対する水戸藩の浪士に殺されてしまいます。江戸城の桜田門外で起こった事件だったことから、桜田門外の変といいます。
日本の開国
日米和親条約と日米修好通商条約の2つの約束により、200年以上続いた江戸幕府の鎖国は終わり、日本は開国しました。
解説!「23.江戸時代⑦ ペリーの黒船と開国」おしまい
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