解説!平安時代の摂関政治
中大兄皇子をささえた藤原鎌足(中臣鎌足)の子孫は、藤原不比等やその子供たちによって、奈良時代に国の政治の中心人物となりました。
しかし794年に平安京を築いた桓武天皇は、自分が中心となって政治をおこなったため、藤原氏は奈良時代ほど力を持てずにいました。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
平 安 時 代 | 794 | (都が平安京へ) |
858 | 藤原良房が摂政 | |
887 | 藤原基経が関白 | |
894 | 遣唐使が廃止 | |
1016 | 藤原道長が摂政 | |
1017 | 藤原頼通が摂政 | |
1053 | 平等院鳳凰堂 | |
1124 | 中尊寺金色堂 | |
登場人物やキーワード | ||
藤原鎌足(中臣鎌足) 藤原不比等 菅原道真 摂関政治 荘園 荘官 寄進 国風文化 かな文字 寝殿造 浄土信仰 阿弥陀堂 竹取物語 伊勢物語 古今和歌集 土佐日記 枕草子 源氏物語 |
藤原氏の摂関政治(摂政・関白)
9世紀の中ごろ、藤原良房が摂政に、藤原基経が関白になりました。
摂政・関白の位につき政治を行うことを摂関政治とよび、藤原氏はふたたび政治の中心へもどりました。
>摂政:天皇に代わり政治をする役。天皇家以外で摂政になったのは、藤原良房が最初です。
>関白:天皇の補佐役。日本で最初に関白となったのが藤原基経です。
藤原氏のさかえ
藤原氏は、自分の娘を天皇と結婚させ、天皇と娘の子供(藤原氏の孫)が天皇になると、天皇のおじいちゃんとして国の政治に力を持ちました。
>藤原氏が強い力をもつと、ほかの貴族は藤原氏と競争することをあきらめ、地方の国司などになりたがるものがでました。
>貴族やお寺など力のあるものが所有している荘園を、藤原氏に寄進(寄付すること)して、自分は荘園を管理する荘官になるものがたくさんいました。
藤原道長・藤原頼通
このように藤原氏はどんどん力をつけ、藤原道長(966~1027年)やその子、藤原頼通のころ最もさかえました。
>このころ、藤原道長がよんだ歌です。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば
※「満月に欠けたところがないように、私はこの世のすべてを手に入れた」という意味
遣唐使の廃止を意見した菅原道真
894年に遣唐使として指名された菅原道真は、以下を理由に遣唐使を廃止すべきだと言い、朝廷はこれを受け入れました。
▲すでに唐からたくさんのことを学んだ。
▲今は唐の力が衰えている。
▲派遣には、朝廷にたくさんお金がかかる。
遣唐使は廃止され、このころから日本で独自の文化がひろまりました。これを国風文化といいます。
国風文化 「かな文字」と文学作品
9世紀ごろかな文字が発明され、今に残る文学作品が書かれました。
竹取物語
・作者:不明
・内容:物語
伊勢物語
・作者:不明
・内容:物語
古今和歌集
・作者:紀貫之など
・内容:勅撰和歌集(天皇などの命令により作られた歌集)
土佐日記
・作者:紀貫之
・内容:紀貫之が土佐から都(京都)へ帰る間の旅を記したもの
枕草子
・作者:清少納言
・内容:清少納言が宮仕えしていた時の体験や物語を記したもの
源氏物語
・作者:紫式部
・内容:主人公の光源氏の恋愛や人生などを中心に記したもの
寝殿造の住宅
貴族は、美しい庭園のある住宅でくらしました。主人が住む「寝殿」という建物が、庭に面して建てられたとから、この住宅を寝殿造といいます。
浄土信仰のひろまり
平安時代の後半には政治が乱れはじめました。人々の心の乱れをしずめようと浄土教がひろめられます。また、この世にも極楽浄土をつくろうという思いで阿弥陀堂が建てられました。
>浄土教を信じ、念仏を唱えて阿弥陀仏に救いを求めれば、死んでから極楽浄土へいけるという教えです。
<有名な阿弥陀堂>
◆平等院鳳凰堂:藤原頼道が宇治(京都)に建てました。
◆中尊寺金色堂:奥州藤原氏が平泉(岩手県)に金をたくさん使って建てました。
解説!「06.藤原氏 平安時代の摂関政治」おしまい
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