解説!鎌倉幕府をひらく
平安時代の終わりごろ力を持った平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどおごり高ぶっていました。このような平氏をよく思ってない武士たちは、各地で平氏勢力に対する反乱をおこしました。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
平 安 時 代 | 1167 | (平清盛が太政大臣に) |
1180 | 石橋山の戦い | |
1180 | 富士川の戦い | |
1184 | 一ノ谷の戦い | |
1185 | 壇ノ浦の戦い | |
1185 | 平氏がほろぶ | |
鎌 倉 時 代 | 1185 | 幕府のしくみができる |
1192 | 鎌倉幕府がひらかれる | |
1219 | 3代源実朝が亡くなる | |
登場人物やキーワード | ||
平氏 源氏 奥州藤原氏 源頼朝 源義経(牛若丸) 源頼家 源実朝 北条政子 侍所 公文所 政所 問注所 守護 地頭 武家政治 征夷大将軍 御家人 ご恩 奉公 封建制度 封建社会 |
1185年 壇ノ浦の戦い
反乱の中心となった源氏は、「石橋山の戦い」などで平氏に敗れるも、「富士川の戦い」などに勝ち、平氏を追いつめていきました。
源頼朝は、弟の源義経に平氏を討つよう指示しました。
↑1184年ごろの勢力図
義経は「一ノ谷の戦い」などで平氏をやぶっていき、1185年に壇ノ浦(山口県)でついに平氏をほろぼしました。これを壇ノ浦の戦いといいます。
>源義経は幼いころ「牛若丸」と呼ばれ、源氏が平氏をほろぼした立役者です。
>平氏が天下をとっていたのは、わずか18年でした。
源義経(牛若丸)が殺される
平氏をほろぼした立役者の義経ですが、その後に頼朝と対立しました。
義経は奥州藤原氏に助けをもとめ東北へ行きますが、頼朝をおそれた藤原泰衡にせめられ、自殺に追い込まれました。
>この後に頼朝は奥州藤原氏に攻め込み、奥州藤原氏をほろぼしました。
1185年 幕府政治の仕組みができる
平氏をほろぼした源頼朝は、1185年に守護、地頭をおきました。
それ以前に設置していた侍所・公文所(のちに政所といわれる)・問注所という役所に守護・地頭が加わり、武家政治の基礎をきずきました。
>守護は地方の国ごとに、地頭は荘園ごとにおかれました。
1192年 鎌倉幕府をひらく
1192年、頼朝は征夷大将軍となり鎌倉(神奈川県)に幕府をひらきます。
>幕府とは、将軍が政治を行う組織(役所)のことです。
>時代劇などでもよく使われる「将軍」は「征夷大将軍」を略した言葉です。もともとは、東北地方の蝦夷を討伐にいく武士最高の位が「征夷大将軍」でした。しかし時がたち「武士の大将」という意味で使われるようになりました。
封建制度のご恩と奉公
頼朝の家来である武士は御家人と呼ばれました。
<ご恩>
御家人は守護や地頭になったり、もともと持っていた土地を領地として認められたり、手がらをたてると新たに領地をもらったりして、将軍からご恩をうけました。
<奉公>
御家人はご恩のお返し(奉公)に、鎌倉の警備をしたり一緒に戦いました。
このようなご恩と奉公の関係を封建制度といい、土地の領主である御家人は、農民から年貢などを取り立てました。こういった社会のしくみを封建社会といいます。
源氏の将軍は3代でほろぶ
1199年に頼朝が亡くなりました。
頼朝の子源頼家が2代将軍となりますが、頼朝の妻だった北条政子の実家(北条氏)と仲良くできず、将軍の位を奪われました。
そして源実朝が11歳で3代将軍となりますが、実際の政治には北条時政(北条氏)が力をもちました。
>1219年、実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺され、源氏の将軍は3代でほろびました。
解説!「08.源頼朝 鎌倉幕府をひらく」おしまい
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