解説!室町幕府をひらく
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
鎌 倉 | 1333 | 鎌倉幕府ほろぶ |
南 北 朝 | 1334 | 建武の新政 |
1336 | 南朝と北朝ができる | |
1338 | 足利尊氏が征夷大将軍 | |
室 町 | 1392 | 南北朝の統一 |
1397 | (3代足利義満が金閣) | |
1467 | 応仁の乱 | |
1489 | (8代足利義政が銀閣) | |
1573 | (15代で室町幕府ほろぶ) | |
登場人物やキーワード | ||
後醍醐天皇 北朝 南朝 室町幕府 管領 守護大名 日明貿易 倭寇 勘合 |
1333年「鎌倉幕府」ほろびる
1274年、1281年の2度にわたって「元」に攻められ、鎌倉幕府や御家人は力を弱めていきました。このような中で後醍醐天皇は、天皇に政治の実権をとりもどそうと動きました。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府に不満をもっている寺院の勢力や、楠木正成、足利尊氏らの武士を味方につけ1333年に鎌倉幕府を倒しました。
1334年「建武の新政」
鎌倉幕府をたおした後醍醐天皇は、公家(貴族)や武士が役職につく天皇中心の政治をはじめます。これを1334年の建武の新政といいます。
>建武の新政は、武士よりも公家を大切にする政治だったので、武士は不満をいだきました。
建武の新政は2年で失敗
足利尊氏は建武の新政に不満をいだく武士をまとめ、1336年に後醍醐天皇のいる京都を攻め込みました。後醍醐天皇は朝廷のある京都を脱出し、奈良県の吉野に逃げました。
>足利尊氏は、後醍醐天皇とは別の天皇を京都にたて朝廷をつくりました。
南朝と北朝ができた「南北朝時代」
しかし後醍醐天皇も吉野に朝廷をおきました。全国の武士などは、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)に分かれて争うこととなります。これを南北朝時代といいます。
>南北朝時代は1336年から、南北朝が統一される1392年まで半世紀以上にわたって争いが続きました。
>足利尊氏は1338年に征夷大将軍となり、新しい幕府(室町幕府)をひらきました。
「室町幕府」がととのう
3代将軍の足利義満は、1392年に南北朝を統一しました。そしてこのころには、室町幕府のしくみも整いました。
室町幕府は、鎌倉幕府に近い政治のしくみを取り入れました。鎌倉幕府で北条氏がなった「執権」のかわりに「管領」の役をもうけ将軍を補佐させました。
>鎌倉幕府の執権は北条氏が代々つとめましたが、室町幕府の管領は、斯波氏・細川氏・畠山氏の3氏が交代でつきました。
>地方では、守護の中に強い勢力をもつものがあらわれ、数カ国も支配する守護大名となっていきました。
日本の海賊「倭寇」があらわれる
このころ中国や朝鮮半島には、日本人の倭寇があらわれます。
<倭寇とは?>
>倭寇とは、「日本の海賊」という意味です。
>倭寇は九州北部や瀬戸内の漁師・商人・武士の中で、武器をもって中国や朝鮮に船でわたり、自分勝手な貿易をした日本の人です。相手にむりな条件をおしつけたり、力づくで商品をうばったり暴れたりしたため、多くの被害が出ておそれられていました。
足利義満は明(中国)と日明貿易をはじめましたが、倭寇によって貿易に被害がでないよう、勘合という証明書を持つものだけが正式に貿易できるよう整備しました。
>勘合を持つものだけ正式な貿易に参加できた日明貿易は、勘合貿易ともよばれます。
長い戦争「応仁の乱」
8代将軍足利義政の時代に、守護大名の細川勝元と山名宗全が権力争いで対立しました。
同じころ足利義政のあとつぎを、弟か子供のどちらにするかで問題となりました。さらに斯波氏や畠山氏の家系でも、あとつぎ問題がおこりました。
このようなそれぞれの問題がしだいに大きくなり、細川氏側(東軍)と山名氏側(西軍)に分かれ激しい戦いとなりました。これを1467年の応仁の乱といいます。
応仁の乱は「決着つかず、疲れはて」
応仁の乱は、京都を中心に11年間も続きましたが決着がつきませんでした。戦に参加した大名や幕府は疲れはて、力が衰えていきました。
同時に新たに力をつけてきた戦国大名といわれる武士があらわれます。身分や位の下の者が上の者を力で負かす「下剋上」の世になっていきました。
解説!「11.足利氏 室町幕府をひらく」おしまい
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