解説!戦争中の人々のくらし
1931年にはじまった満州事変、そして日中戦争や太平洋戦争(第二次世界大戦)と、およそ15年にわたって日本は戦争状態が続きました。長く、そして激しくなる戦争で日本は、国が持つもの全てを戦争に注いでいきます。
このページでは、国力を戦争につぎ込んだ日本の中で、大きく生活が変化していく人々のくらしについて取りあげています。
このページの歴史年表
時代 | 年代 | 主なことがら |
昭 和 | 1931 | (満州事変) |
1937 | (日中戦争) | |
1938 | 国家総動員法 | |
1939 | (第一次世界大戦) | |
1941 | 米が配給制へ | |
1941 | (太平洋戦争) | |
1942 | 衣料が配給制へ | |
1943 | 学徒出陣 | |
1944 | 勤労動員 | |
1944 | 学童疎開(集団疎開) | |
1945 | (東京大空襲) | |
1945 | (広島・長崎に原爆) | |
1945 | ポツダム宣言 |
1938年 国家総動員法
日中戦争がはじまった1937年のよく年、日本の政府は国家総動員法をつくりました。
国家総動員法は、全ての国民や全てのものを、戦争のために用いる事ができるという法律です。
配給制となったお米や衣服
日本でとれたお米を日本にいる人だけで食べてしまえば、戦場の兵隊へとどける食料がなくなります。そこで国は食べ物や衣服などをすべて管理しました。
国民は自由にお米などを買えず、国からくばられる配給制になりました。
>1941年にお米が、1942年に衣類が配給制となりましたが、十分な量の配給はなく、人々のくらしは苦しくなっていきました。
1943年 学徒出陣
戦争が長引いてくると兵隊が不足してきました。
それまで大学生は徴兵が免除(兵隊にならなくてよい)されていましたが、兵力の不足をおぎなうため、20歳以上の学生は一部を除いて兵隊になり、戦場へおくられました。これを学徒出陣(学徒動員)といいます。
1944年 勤労動員
大人の男性がたくさん兵隊となったため、工場などで働く人手が不足しました。人手をおぎなうため、中学以上の学生や女学生は、工場や農村で働きました。これを勤労動員といいます。
1944年 学童疎開がはじまる
1944年にはアメリカの飛行機が日本の上空に飛んできて、爆弾を落とす空襲がはじまりました。
工場や人口の多い都市がねらわれやすく、東京や大阪、名古屋など都市にある小学校では、農村へ避難する集団疎開を行いました。これを学童疎開といいます。
>学童疎開は学校ごとに行われ、小学生は家をはなれ、農村部にあるお寺や旅館などで避難生活をおくりました。避難先にもお腹を満たすだけの食べ物はなく、ひもじい生活をおくったようです。
強制的に働かされた外国人
戦場では、そこに暮らす人たちの食べ物やものを取りあげ、日本語を使うことを義務とし、日本のために働かせました。日本軍の支配に抵抗する人は、罰を受けたり処刑されました。
また、たくさんの朝鮮人が日本に連れてこられ、日本の工場や鉱山などで働かされました。
1945年 ポツダム宣言と戦争の終わり
1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れました。翌日8月15日のラジオ放送で天皇が、国民に対し戦争に負けたことを伝えました。
満州事変からはじまった15年もの戦争状態は終わり、日本が支配していたアジアの人々は解放されました。
解説!「35.昭和の戦争③ 戦争中の人々のくらし」おしまい
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